河野薫記念館
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河野薫について
 
「父、河野薫の思い出」小林えつ(河野薫長女)  
49歳という若さで父がなくなってから早いものでもう40年になる。
昭和30年代の10年間を全速力で駆け抜けて行ったような人であった。いまのように版画そのもののステータスが確立していない時代である。国内では知人の新築祝いなどに買い求めてくださる方もちらほらあっても、まだまだ自分で買って楽しむような余裕はない時代であった。銀座の中華料理店の壁に父の作品を見かけたりすると妙にドキドキしたのを覚えている。
そのころの父の作品は、米軍基地の方や、海外からの観光客が祖国へのお土産に買ってくださったのではないかと思われる。小さな我が家のアトリエに大きな体の外国のご婦人方が大勢お見えになって、熱心に父の仕事ぶりを見学されたこともあった。観光バスのようなものでお見えだったので驚いた記憶がある。クリスマスには当時まだ珍しかったグリーティングカードや、ドライフルーツの詰め合わせ、木の実で作られたクリスマスツリーなどが送られてきて私たち子供には本当に楽しみであった。
河野薫制作風景
そのうち、海外での展覧会も行われるようになった。しかし、生来病弱であった父は、海外はおろか国内さえも旅行らしいものは、したことがなかった。心臓にも心配があったし、高血圧で視力も極端に悪かったので、体には人一倍気を使っていて、ヨガや、健康法の体操は毎日欠かしたことがなかった。断食道場に通ったこともあった。お正月や、お祝いの席で機嫌よく飲んだ後や、好物の鯨のおのみを食べた次の日には必ずといっていいほど倒れて寝込んでいた。
だから海外の展覧会のお誘いがあっても自らでかけたことはなかった。紅型を好んでいたので「沖縄に行きたい。」とよく口にしていたがそれもかなわなかった。それでも、生まれ故郷の小樽から上京してからは時々故郷に帰ることはあったし、母の里が静岡県の梅が島温泉の近くであったから時々は行ったこともあった。
歩いて2,3分のところに住んでいた斉藤さんのおじさん(私たちは親しみをこめて版画家の斉藤清さんをこう呼んでいた)と一緒に、伊豆の東府屋へ行ったときは、台風に遭って散々な思いをしたらしい。旅行運がなかったといえる。関西には古くからの友人と伴にたった一度だけ出かけた。数少ない風景描写のスケッチブックが現在一冊だけ残っている。それから察するにあまり多くの所をめぐったようには思えない。
ハワイの作品もあるにはあったが、ファンの方から懇願されて無理に作ったように見えた。行ったことも無い所の、創作意欲も湧かないものを作るのはさぞ苦痛であったに違いない。
しかし、「僕は版画屋でいい。みんなが喜んでくれればそれでいい。」が口癖であったから、それでよかったのかもしれないが。
河野薫制作風景 唯一の海外体験というにはあまりにも悲しくつらいが、四年間のシベリア抑留生活のことは、あまり多くを語りたがらなかった。黒パンと干しぶどう、何人か集まると自然に湧き上がるという歌声の話しなど、子供心にはむしろ美しい体験のように思えたのが後に更につらさを増した。
当時お付き合いのあった画商の方の紹介で千葉の鵜原に珍しく家族全員で旅行したのが最後になった。日焼けした父の肌が妙な黒さだったことが強く印象に残っている。その年の秋、病の床に就き、二ヶ月間の激しい肺癌との戦いの後、この世を去った。母以外は誰も病室に入れず、子供たちには父がどこかに出かけたまま帰ってこなかったと思えるような最期であった。
今になって、インターネット上やクリスティーズのオークション誌などで海外での父情報を目にするたびに、作品の中に「やっとゆっくり旅しているよ。」と言っている父の姿を見る思いがするのである。
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